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映画「ドクター・ストレンジ」はいかにして「インセプション」を超えたか?

今回の記事は、昨日鑑賞した映画「ドクター・ストレンジ」のビジュアル・コンセプトに関するものです。

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映画「ドクター・ストレンジ」の映像表現上の最大の見せ場は、トレーラー動画でも引用されているニューヨークの街並が映画「インセプション」ばりに折れ曲がるシーンなのは明白です。

海外メディアIndieWireの記事では、「ドクター・ストレンジ」の視覚効果スタッフにインタビューして、同映画のビジュアル・コンセプトの起源について聞き出しています。そのインタビューから、同映画の画作りに影響を与えたものを3つ紹介します。

「ドクター・ストレンジ」を彩る3つのビジュアル・コンセプト


万華鏡


同映画の視覚効果スタッフは、「インセプション」で有名な街が折れ曲がるシーンに影響を受けていることを素直に認めています。同時に早くから「インセプション」を超えることを決意していました。

映画のなかでは、万華鏡をのぞいた時に見られるような画面全体が屈折したようなシーンがいくつも描かれており、ひとつのビジュアルテーマとなっています。視覚効果スタッフは、その万華鏡のイメージをニューヨークの街並全てに反映させて、あの有名なシーンを作り出しました。

万華鏡に着想された抽象的な動画は、YouTubeを探すと多数見つかります。以下にあの有名なシーンを彷彿させるアブストラクトな動画を引用します。


Monument Valley


万華鏡のイメージのほかに、あの有名なシーンを強烈なものとしている特徴に「重力回転」とでも言うべきものがあります。ふつう重力は地面に向かって働く引力ですが、例のシーンでは上下左右に「落ちる」のです(似たようなシーンはマンガ「ジョジョの奇妙な冒険」第六部のラストバトルでもありました)。

この「重力回転」は、実はiOSアプリ「Monument Valley」から着想したとインタビューで答えています。秀逸なビジュアルデザインのパズルゲームである同アプリでは、確かに床がルービックキューブのように回転して、頻繁に「重力回転」が起きています。


フラクタル


万華鏡のイメージと多少重なりますが、同映画のもうひとつのビジュアルテーマに「フラクタル」があります。

「フラクタル」とは似たようなカタチが何度も繰り返し現れる図形パターンのことで、ギザギザしたリアス式海岸がその典型例として知られています。

同映画トレーラーではフラクタルなイメージは登場しないのですが、実際に映画を鑑賞すると、フラクタル図形のなかでも特に有名な「マンデルブロ集合」に着想されたシーンがあります。

同映画のもっともフラクタルなシーンを連想させる360°動画がYouTubeにあったので、引用します。


コラボVRアートもある


ちなみに、「ドクター・ストレンジ」を制作したマーベル・スタジオは、同映画のプロモーションとして、VRアートツールTilt Brushを使うVRアーティストとコラボした360°動画も発表しています。

そんなVRアート作品のひとつである「重力回転」したニューヨークをTilt Brushで描いた360°動画を、以下に引用します。


マーベル映画が新次元に向かう扉を開いた「ドクター・ストレンジ」


「ドクター・ストレンジ」は、マーベル映画に超科学と魔法が融合した斬新な世界観をもたらしたと言ってよいでしょう。魔法的な世界観のマーベル映画には「マイティ・ソー」シリーズがありますが、主人公ソーが基本殴り合うだけのマッチョなのに対して、実際に呪文を繰り出すドクター・ストレンジの方がよりスタイリッシュに魔法を体現しているように見えます。

『〈インターネット〉の次に来るもの』の「SCREENING」インデックスは、次回以降の記事でまとめてアップします。

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「禁じられた語りを打ち破る沈黙」映画『ルック•オブ•サイレンス』感想 ※ネタバレあり

今日の記事は、最近公開された映画を批評する映画レビューです。
今日批評する映画は、昨年注目されたドキュメンタリー映画『アクト•オブ•キリング』の姉妹作『ルック•オブ•サイレンス』です。今日の記事では、かなり踏み込んだ批評を展開するので、ネタバレがあります。

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総合評価:★★★★☆(星5つ満点中星4つ)

「私にはそれがまるで、自分の祖先の多くが命を落としたホロコーストから40年後のドイツで、ナチスが未だ権力を持ち続けていたかのような光景に見えました。ナチスの親衛隊が自分の行為を語るとしたら、きっとこのような感じだろう、と。その瞬間から、すべての仕事を捨て、何年かかってもいいからこの問題を掘り下げようと誓いました。」
 ー 『ルック•オブ•サイレンス』プログラム所収のジョシュア•オッペンハイマーへのインタビューより抜粋

民衆が不在な「現代」の政治的映画

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『戦艦ポチョムキン』はモンタージュ技法を駆使した映画としてエイゼンシュタインの名を世に知らしめた作品である。この映画はロシア革命20周年を記念する政治目的のために制作された。画像は有名な「オデッサの階段」のシーン。

『シネマ』で展開されるドゥルーズの映画論は、20世紀のおける映画史をちょうど第二次世界大戦を境として、古典時代と現代に分けています。古典時代の映画の特徴は、映画における出来事の生成変化を物体の運動、あるいは人物の行為を撮影することで表現します(「運動イメージ」の映画)。古典時代の映画を確立した作品には『イントレランス』が挙げられます。

ドゥルーズが論じる「現代」の映画とは、第二次世界大戦後に現れる出来事の生成変化を運動や行為ではなく、カメラが撮影する光景の推移で表現するものです(「時間イメージ」の映画)。時間イメージで構成された作品の作り手として、ドゥルーズはヴィスコンティを挙げています。『山猫』『ベニスに死す』で描かれているのは、ある貴族の生活でも大作曲家の旅行記でもありません。そうではなく、貴族や作曲家の行為が醸し出す「滅ぶ」過程として流れる時間が映像化されているのです。

ドゥルーズは『シネマ2*時間イメージ』の第8章において、映画と政治の関係について論じます。映画と政治の関係についても、古典-運動イメージと現代-時間イメージの対比が認められます。古典時代の政治的な映画は、民衆が行動の主体として描かれています。古典時代の政治映画の代表作には、『戦艦ポチョムキン』があります。この作品で最も有名な「オデッサの階段」のシーンは、まさに民衆を画面の中心に据えています(ちなみにこのシーンに出演しているオデッサ市民は、みな演技経験のない一般市民)。対して、「現代」の政治的映画には、民衆が欠けています。具体的には、第二次世界大戦後に制作された政治的なドキュメンタリー映画のうちで注目すべきものは、マイノリティーあるいは植民地の先住民を撮影しているのです。このような被写体は、社会的には「存在しない」グループとして扱われるのが歴史の常です。こうした被写体を中心に据えた映画では、撮影するべき「民衆」を発見し、発見した「民衆」が自らの出自に目醒めていく過程=時間イメージを映像化することが求められます。自らの出自に覚醒する時の流れを撮影ためには、隠れていた「民衆」に自らを語らせることが最適な方法です。被写体を映画制作に巻き込むことは、『アクト•オブ•キリング』のレビューで言及したように、被写体が映画の意味の創造者となることを意味します。

『ショアー』、「語り得ぬもの」を語る

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『ショアー』はホロコーストという空前絶後の出来事を映画によって再現するのではなく、再現できないことを表現した映画である。映画で撮影された光景は、今は何もないかつての強制収容所の跡地である。画像は『ショアー』のトレーラーからの引用したもの。先に引用した『戦艦ポチョムキン』の「オデッサの階段」のシーンと比べると、「民衆」の不在は一目瞭然である。

ドゥルーズが『シネマ』を出版した後、まさにこの上ない「現代」の政治的映画が発表されました。その映画こそ、ホロコーストからの生存者の証言を撮影した『ショアー』です。『ショアー』がこの上なく「現代」の政治的映画であるのは、ふたつの「不在」を被写体としているからです。ひとつめの「不在」は、撮るべき「光景」の不在です。ホロコーストという忌むべきことが起こったはずの強制収容所があるはずの場所には、収容所の姿など跡形もない野原が広がっていました。もうひとつの不在が「証言者」の不在です。周知のように、ホロコーストからの生存者はごくわずかでした。しかし、それ以上にそうしたわずかの生存者が、自らに起こった災いがあまりに圧倒されて語れずにいたために、証言が可能な人物が文字通り不在だったのです。

『ショアー』は「光景」と「証言者」というふたつの不在に対して、まさにその不在を被写体として真正面から撮ることを選択しました。すなわち、ひとつめの「光景」の不在については、あえて空虚と化したホロコーストの現場を被写体とすることで、暴力の現場をも抹消する徹底した暴力を表現しました。ふたつめの「証言者」の不在に関しても、証言というにはあまりに断片的な生存者の語りを、安易に要約することなく記録していきました。「証言」というにはあまりにも頼りない語りが、却って理解を超えた暴力を想起させたのでした。

『ルック•オブ•サイレンス』、「禁じられた語り」を見せる

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『ショアー』と『ルック•オブ•サイレンス』は、虐殺の被害者を被写体としている共通点があります。また、撮るべき当の被害者が「歴史的には」存在しないことになっていることも共通しています。『ルック•オブ•サイレンス』は『ショアー』と同様なドゥルーズが言うところの「現代」の政治的映画なのです。しかしながら、『ルック•オブ•サイレンス』では『ショアー』にはなかった「光景」も「証言者」も「現実に」存在します。虐殺の現場もあり、証言する加害者および被害者の家族がいるにもかかわらず、虐殺を語ることが出来なかったのは、忌まわしい惨事として虐殺を語ることが禁じられていたからなのです。そして、未だに権力を握っている加害者こそが「歴史的に」虐殺を語ることを禁じていたのでした。『ルック•オブ•サイレンス』を制作するとは、誤解を恐れずに言えばナチスが未だ権力を握っている状況で、『ショアー』のような虐殺の被害者についての映画を作れるかという問いかけに応えることでもあるのです。こうした問いかけに対して「語りの禁止」を如何にして克服するかという点が、重要な鍵となるのではないでしょうか。

語ることが禁じられた虐殺についての映画を制作するにあたり、語りを禁じている加害者にあえて語ってもらうという手法をとったのが『アクト•オブ•キリング』でした。虐殺の被害者に寄り添って映画を制作した『ルック•オブ•サイレンス』では、被害者が加害者と対面する現場を撮るという手法をとりました。この手法を実行するにあたり撮影班および被害者のアディは、周到な準備をしていました。撮影は少数のスタッフで行い、不測の事態が生じた場合は、いつでも逃走できるようにしていました。アディも加害者を正面切って非難するようなこともせず、はじめは眼鏡調整師として接近して、徐々にかつての虐殺を問い質すという演劇的とも言える役回りを担いました。

『ルック•オブ•サイレンス』の特筆すべきシーンは、アディが加害者に虐殺を問い質しはじめるところです。それまでの和やかな雰囲気が一変するのです。そして、加害者は狼狽したり、怒りを露にします。こうした雰囲気の一変は、加害者が次の言葉を発するよりも早く、言わば沈黙のなかで起こります。沈黙のなかで、加害者には何が起こったのでしょうか。

加害者にとって、アディのような被害者の家族は自分から遠ざけておきたい亡霊のような存在なのではないでしょうか。自分が手をかけた被害者はすでに死者となり目の前に現れるはずはないにもかかわらず、そうした死者の魂を受け継ぐ者との対面は、加害者にとっては亡霊の現れに等しいと言っても過言ではないでしょう。こうした亡霊を遠ざけておきたい理由として、報復を恐れていることは当然あるでしょう。しかし、遠ざけておきたいいちばんの理由は、倫理的な責めに悩まされないためではないでしょうか。それゆえ、亡霊に苛まれないために加害者は虐殺を「現実」の出来事として語ることを禁じる一方で、自分たちを正当化する「歴史」を騙ったのです。

アディと対面した加害者の反応は様々でした。しかし、共通しているのは、アディが被害者の家族だと知った瞬間に平静ではいられなくなったことです。加害者は沈黙のなかで、それぞれの仕方で亡霊を見たのです。

映画の限界を超えて

『ルック•オブ•サイレンス』は、虐殺の被害者の家族と加害者の対面を撮影したことにより、他に類を見ないドキュメンタリー映画となっています。ただ姉妹作『アクト•オブ•キリング』のような加害者が改心するような瞬間は、直接的には描かれていません。加害者が自らの罪を認めるためには、虐殺を自ら被害者を演じて回顧するような何らかの自発性が不可欠なのでしょうか。『ルック•オブ•サイレンス』からは、『アクト•オブ•キリング』にはなかったある種の無力感を感じずにはいられません。

映画によって直接的に「歴史」を変えられないにしても、『ルック•オブ•サイレンス』を制作したジョシュア•オッペンハイマーはすでにより良い「現実」のために行動を起こしています。『ルック•オブ•サイレンス』のプログラムによると、ジョシュア氏は現在映画をインドネシアの新大統領に観てもらうように働きかけています。

インドネシアでは昨年政権交代があり、新大統領にジョコ•ウィドド氏が就任しました。ウィドド氏は、富裕層出身でも軍部出身でもない一介の庶民から大統領になったことで注目されました。彼は大統領選を戦うにあたりSNSを最大限に活用したことから、オバマ大統領と比較されたりもしています。

ウィドド新大統領は、テクノロジーを政治に活用する「21世紀」型の政治家として注目されている。動画はYoutubeに投稿されているCNNのニュース映像。

ジョシュア氏もウィドド新大統領のようなAI(After Internet)を生きる人物ならば、「歴史」における過ちを正せると感じたのでしょう。かつて映画は、旧ソビエト政権やナチスを繙けばわかるように、ときに政治に利用されてきました。しかし、今日では政治を動かすメディアはインターネットが主役となり、映画はむしろトラディショナルなメディアとなった感が否めません。

『ルック•オブ•キリング』の総合評価が星4つなのは、今まで述べたように一種の無力感を感じたからです。しかし、残りの星は今後のインドネシアが正しい歴史を歩むことによって、付与されるでしょう。 

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「受肉した映画による歴史の過ぎ越し」映画『アクト•オブ•キリング』感想

今日の記事では、昨年公開されたドキュメンタリー映画『アクト•オブ•キリング』のレビューです。

本来このブログでは公開間もない映画をレビューすることを原則としていますが、次回の記事でレビューする『ルック•オブ•サイレンス』を適切に理解する下準備として、あえて1年以上前に公開された『アクト•オブ•キリング』をレビューします。このような事情のため、レビューにおけるネタばれもあります。

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総合評価:★★★★★(星5つ中5つ満点)

『アクト•オブ•キリング』の奇妙さ
『アクト•オブ•キリング』は題名が表わしている通り、1965年にインドネシアで実行された共産主義者とされる人々を虐殺した加害者に、自分たちが実行した虐殺についてアクト=演じてもらって、彼ら自身の映画を作る一部始終を記録した映画です。こうした特殊な制作背景をもっている本作は、他の映画にはない特異な特徴があります。このレビューでは、特異点をふたつ挙げます。

ひとつめの特異点は、加害者たちが作った映画の画像が本編ではごく断片的にしか現れないことです。具体的には、映画の作り手である加害者たちが撮影した映像をチェックするために、テレビのディスプレイに映像を出力して見ている場面に写されているだけなのです。そのため、撮影した映像に込められた加害者たちの主張は、本編を見てもまるでわからないのです。

ふたつめの特異点は、ひとつめのものより深刻です。映画の構造上、加害者たちは映画の出演者になっている時は過去の虐殺という出来事を演じ、映画の作り手として現在を生きている時は、過去を振り返る実在の人物として心情を吐露しています。つまり、演技というかたちで仮想的な時間が表現されると同時に、まさに正当なドキュメンタリー映画として現実が提示されてもいるのです。しかもこの仮想的現実と真正な現実は、映画が進むにつれて、その区別が曖昧になっていくのです。だいたい、過去の虐殺を再現するために女装するような演出に、如何ほどの「真実」があるのでしょうか。映画の作り手である加害者が勝手に「過去」を捏造しているだけのように思われてきます。そうなると、「現在」において吐露する過去の虐殺という所業に苦しめられているという発言も、単なる演技のようにも見えてきます。

本作を「悪の凡庸さ」あるいは「個人の倫理と国家の正義の対立が生む悲劇」といった倫理的•政治的文脈において理解するはもちろん可能ですし、そうした理解がむしろ自然な受け取り方のように感じられます。しかし、こうした理解では本作を特異なものとしている仮想的現実≈虚構と現実の関係を、十全に見据えていると言い難いのではないのでしょうか。少なくとも本作は、「戦争が生む悲劇」あるいは「戦争は人間性を麻痺させる」といったややステレオタイプ的な倫理的解釈で片付けてしまうと、見落としてしまうものがあまりにも多いのです。

現実/虚構の二項対立を乗り越える先駆的映画、シネマ•ヴェリテ

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『市民ケーン』は、新聞王ケーンがその死に際して残した「バラのつぼみ」という言葉が何を意味するかを狂言回しであるトムスンが調査するという筋立ての映画である。この調査は失敗に終わるものも、ラストシーンにおいて映画の観客には理解できるような演出となっている。劇中の謎を劇中の人物は誰も分からないにもかかわらず、観客は分かるという劇中の意味が「映画の外に」開いた先駆的作品である。画像は『市民ケーン』の1シーン。

ドゥルーズは、映画論を展開した著作『シネマ2*時間イメージ』の第6章「偽なるものの権能」において、興味深いなドキュメンタリー映画論を提示しています。ドゥルーズは、劇映画であれドキュメンタリー映画であれ、およそ映画が意味あるものとして理解されるときに備えている構造を論じています。

その論点とは、映画の画面内の被写体≈演者の視線と画面内の光景の一致です。今日の映画の約束事として、カメラが撮影する光景は小説でいうところの地の文として機能して客観的描写を提示します。カメラのアングルが画面内の人物の視線と一致した場合は、その人物が見ている主観的な光景として理解されます。そして、何より重要なのは画面内の人物が見ている対象物が画面内になくとも、撮影されている人物は映画のなかの何かを見ていると理解されることです。言って見れば映画の意味は画面内に閉じているのです。分かりにくい映画は、客観的なカメラアングルと主観的なカメラアングルを適切に切り替えることが出来ていないだけであって、原理的に映画内で解決できない「謎」はありません。この論点は「映画画面内の統一性」と言えます。

「映画画面内の統一性」は、少し考えれば至極当たり前のことを言っているに過ぎないことが理解できると思います。しかし、ドゥルーズは映画史においてこの映画の約束事を壊した作品があることを指摘します。まずオーソン•ウェルズの『市民ケーン』で約束事の崩壊の予兆があり、次いで1960年代に現れた新しい手法を用いたドキュメンタリー映画で完全に解体されます。ドゥルーズは、こうしたドキュメンタリー映画の例としてシネマ•ヴェリテ(仏語で「真実の映画」)を挙げています。

シネマ•ヴェリテの代表作であるジャン•ルージュの『ある夏の記録』は、はじめは被写体として撮影したパリの一般市民に、編集した映像を見せて自分たちを正しく表現した映画であるか否かを討論するまでの一部始終を収めた映画です。この作品の革新的な特徴は、映画画面内の被写体が同時に映画の作り手でもあるところです。被写体が同時に作り手になることで、先に述べた映画の古典的な約束事が解体します。被写体が作り手も兼ねることによって、画面内に映っている人物は台本や演出の支配に服した「生けるオブジェ」であることを止めてしまいます。「生けるオブジェ」であることを止めた被写体の視線は、もはや画面内のどこかに固定されなくなります。そして、映画の作り手と化した被写体=演者は、映画の意味を生成する者となるのです。

「映画画面内の統一性」という伝統的な約束事にしたがった映画では、フィクションとドキュメンタリーの区別は、画面内で閉じている意味連関が現実の世界に見出せるか否かということに基づいています。ところがシネマ•ヴェリテでは、例え現実を撮影した映像であっても、被写体=作り手が真実味を感じなれば「虚構」となります。シネマ•ヴェリテとは、言って見れば被写体=作り手が「現実」を決定する過程を描いた映画なのです。こうした現実を決定する過程は、現実と虚構という二項対立を絶えず乗り越えていく行為と言い換えることも出来ましょう。

プレマン、起源を欠いた者たち

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『アクト•オブ•キリング』は、被写体が同時に映画の作り手でもある映画なのは言うまでもありません。それゆえ、ドゥルーズのシネマ•ヴェリテ論を援用するならば、本作は虐殺の加害者が映画作りを通じてある種の「現実」を見出す作品と理解すべきなのです。映画のどこが「真実」で、どこが「嘘=虚構」なのかを判定することはあまり意味のないことです。加害者にしてみれば、悪夢にうなされている現実を表現しようとして、悪霊を演じて撮影することは「真実味」があり、反対に共産主義は国家を脅かす「嘘」なのです。

本作の主人公とも言えるアンワルには、見出すべき「真実」がありました。それは、共産主義者の虐殺が正義であったと語る歴史です。アンワルは、自らが実行した虐殺が正しいと信じている一方で、殺害した光景が文字通り悪夢となって蘇ることに苦しんでいます。アンワルは、虐殺を正当化することで、文字通り悪霊を祓うことを願っていたからこそ、映画作りに積極的だったと言えましょう。

アンワルほどではないにしても、映画に登場するプレマン(虐殺の実行グループの名称)の面々は、虐殺という過去と決して健全とは言えない関係にあります。現在ではアンワルと距離を置いているアディ•ズルカドリは、もはや過去を顧みないという姿勢を貫いていますし、アンワルと行動を共にしているヘルマン•コトに至っては過去そのものに関心が薄く、執心しているのは専ら現在の力=権力という始末です。プレマンの面々は、それぞれの仕方で自らの起源を失ったまま現在に至っているのです。

自らが映画となり、他者となった果てに

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しかしながら、失われた起源を求めるアンワルの試みは、失敗を宿命づけられていたと言わざるを得ません。なぜならば、被写体=作り手となって自ら映画の意味の創造者となった場合、(虐殺に加担して成り上がったという)現在の「歴史」を解体することはできても、アンワル自身が望んだ「英雄」としての歴史が新たな現在となる保証はどこにもないからです。

ドゥルーズは、シネマ•ヴェリテにおいて被写体=作り手が映画の意味の創造者と化していくさまを次のように表現します。「人物は、決してフィクションになることなく作り話を始めるとき、みずから他者となる」(『シネマ2*時間イメージ』 p210より引用)と。虐殺の被害者の役を演じるほどに映画制作にのめり込んでいったアンワルの身に起こったことは、まさに自らが被害者という他者となることだったのですそして、他者となることによってはじめて、自らが罪人であるという「歴史」を超えた「真実」を見出したのでした。

『アクト•オブ•キルング』では、アンワル以外の登場人物に関して、映画作りを経てどのようになったかは明確には描かれていません。しかし、ほかの人物はアンワルほど映画作りによって「現実」を変えようという意志はなかったように推し量られます。アンワルが映画作りを経験して被害者の痛みに共感し得たのは、アンワルがほかの人物より道徳的だったという説明は不適切だと思われます。そうではなく、ほかの人物より映画によって「現実」を変えることを強く望んでいたからと捉えるのが妥当です。

『アクト•オブ•キリング』は、倫理的•政治的メッセージを声高に主張するような映画ではありません。それでもなお、本作が傑作の誉れ高いのは、「現実」が「歴史=物語」という虚構に根を下ろしていることを暴き立てることで、「現実」を問い質す力が映画にはあることを、凡庸な政治的映画が及びもしない仕方で証しているからではないでしょうか。 

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『マッドマックス 怒りのデス•ロード』感想 ※ネタバレなし

今日の記事は、映画を批評するレビュー記事です。
レビューする映画は、『マッドマックス 怒りのデス•ロード』です。

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総合評価:★★★★★(星5つ中星5つ満点)

多数の海外テック系ブログニュースサイトで、高い評価を受けている『マッドマックス 怒りのデス•ロード』は、ポスト•アポカリプス(終末戦争後の世界)映画という前世紀を連想される主題を扱いながらも、新しい黙示録的映像美に溢れた作品となっています。以下では、そうした新しい映像を生み出す要因となっている映画の世界観の徹底した作り込みを、主に映画プログラムからの情報をもとにまとめていきます。

CGを使わないガチのアクションシーン

マッドマックスシリーズの生みの親にして『マッドマックス 怒りのデス•ロード』の監督でもあるジョージ•ミラーは、この映画を「物理法則に逆らう類」のものではないとして、あえてCGへの依存を最小限にしています。カーアクションでは実際に車は大破し、スタントマンではあるものも、生身の人間が演じています。撮影シーンの順番も、映画ストーリーの進行順に撮っています。そのため破損した車は、破損箇所を残しながら次のシーンに登場するので、生々しいリアリティが表現されました。

あくまで物理的な映像表現を追求した本作は、一方で極めて現代的な一面もあります。編集が前世紀のマッドマックスシリーズに比べて、格段にペースアップしています。『マッドマックス』および『マッドマックス2』は2時間弱の尺に1200カットありました。対して、ほぼ同じの尺の本作は2700カットあります。画面の切り替え速度が2倍以上になっているのです。ミラーが言うには、現代の観客はCMやミュージックビデオの影響で速いカット割りに慣れているので、ペースアップが可能となったということです。

本作は、映画のほぼ前編にわたりカーアクションが展開するので、セリフが少なくなっています。映像だけで状況を伝える必要があるので、画作りにはかなりの労力が割かれています。撮影前にストーリーボードを3500枚作成し、そのほとんどを映画に採用しています。カーアクションの合間にはさまれる超遠景のロングショットは、歴史画を思わせる完成度に達しています。

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「終末戦争後の世界」に忠実な美術

ミラーは本作の世界観を「必読書」としてまとめていました。そのなかには、対立し合う種族の歴史、風習、序列等が詳細に設定されていました。そうした世界観は一言で言えば「高度文明崩壊後の中世」です。美術監督のコリン•ギブソンは、その世界観を再現すべく奔走します。あらゆる資源が枯渇している状況という設定に従い、廃物を集めてキャストが持つアイテムを作り、スクラップから車まで組み立てました。

キャストのメイクも詳細な世界観が反映されています。本作に登場する戦闘集団ウォー•ボーイズは序列や役割によって、肌の色が異なります。最終的にはウォー•ボーイズのメイクには61種類の肌色が使われました。

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車もキャストの一員

車のデザインにも、世界観が反映されています。美術監督コリン•ギブソンは、作品の世界観に従って車をデザインするために3つの原則を考えました。ひとつは、絶えず闘争状態にある世界なので、軽いカーボン•ファイバーの車ではなくデトロイトで生産されるような頑丈なスチール製であること。ふたつめは、デジタル部品は使わずマニュアルで修理可能なメカニカルな構造であること。みっつめは、資源が枯渇し美など存在しない世界なので、エレガントではなく無骨なデザインを徹底することです。

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最新の撮影技術を駆使したカー•アクション



本作のカーアクションの撮影には、最新の撮影法である「エッジアーム」システムを採用しました。このシステムは、車の屋根にクレーン付きのカメラが搭載されたものです。このエッジアームを撮影する車と並走させて、カーアクションを完成させました。

以上のように新旧の撮影技法を駆使して荒廃した世界を徹底して構築した『マッドマックス 怒りのデス•ロード』は、単なるカーアクション映画の域を超えています。本作は『ブレードランナー』と並びたつ荒廃した世界像を予言する、文字通りのポスト•アポカリプス映画です。

21世紀の現在は、確かに前世紀のような冷戦を背景とした核戦争の恐怖には、かつてほどのリアリティーはないかも知れません。しかし、世界が荒廃するきっかけは、殺人ウイルスのパンデミック、あるいは環境破壊の致命的進行など依然として存在しています。『マッドマックス 怒りのデス•ロード』は、世界から文明が消え去った後に訪れる荒々しい自己保存本能と自己犠牲に象徴されるような良心が鋭く対立する光景を黙示しているのです。
 
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吉本幸記

Author:吉本幸記
元エンジニアのフリーライター。テクノロジー系の記事を執筆している。アートにも関心がある。美術検定3級取得

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