スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ケヴィン・ケリー 講演会 感想 & 報告

今回の記事は、昨日参加したケヴィン・ケリー氏の講演会の報告と感想を書きます。

20160724_image_1.jpeg


Tech界最強の導師の来日


WIZED主催で都内某所(WIREDの意向で開催場所の拡散不可)で行われたケリー氏の講演会は、新刊『〈インターネット〉の次に来るもの―未来を決める12の法則』の出版を記念して行われました。

参加者は200人以上で、ほぼ満員。男女比は男が9割弱、女が1割強。年齢構成は20代が最も多く6〜7割、残りが30〜40代で50代以上は見かけませんでした。

20160724_image_2.jpeg

実物のケリー氏を見て思ったことは、「現代のジェダイ・マスター」。あごひげをたくわえ、よどみなく話す姿を見て、ジェダイの服を着たらサマになるなぁ、と思わず妄想しました。

講演では、新刊で論じている人工知能、VR、情報管理についてケリー氏本人が解説しました。

知能に関するコペルニクス的転回


人工知能は、その進化が目覚ましい一方で、脅威論もかまびすしいのは周知の通りですが、ケリー氏は知能に関するドグマを指摘します。ヒトが知能について考えるとき、知能の基準を人間におき、ヒトより劣った動物、ヒトを凌駕するかも知れない人工知能という構図で捉えがちです。ケリー氏は、そもそも人間の知能を標準型として捉えるのが間違いである、と述べます。

20160724_image_3.jpeg

ケリー氏が提唱する新しい知能モデルは、「ハーモニーモデル」とでも呼べるものです。知能は知覚をはじめとして身体能力、思考力など様々な要素のかたまりのようなもので、ケリー氏は「知能は多くの音色が集まったようなもの」と表現します。このハーモニーモデルから見ると、知能における動物と人間の違いとは、音色の違いであって優劣ではないのです。

ハーモニーモデルでさらに重要なのは、すべての要素が優れている万能な知能など存在しない、という見解です。ある要素を強めるとほかの要素が弱まったり、ある要素が弱いがために違う要素が強くなる、というのが知能の実情なのです。

20160724_image_4.jpeg

人工知能開発で重要なことは、人間の上位互換のようなメタ・ヒューマンを目指すのではなく(そんなものは存在できない)、色々な音色の人工知能を作って知能の多様性を豊かにすることだと、ケリー氏は主張します。

経験を貨幣化するVR


20160724_image_5.jpeg

VRとケリー氏の関係は深く、ケリー氏はVRヘッドセットを1989年に体験していたとのこと。ただ当時のVRヘッドセットは使用環境を構築するのに100万ドルかかったので、当然ながら普及しませんでした。時代がくだって今日VRヘッドセットがブームなのは、価格が安くなったことが決定的要因なのです。

20160724_image_6.jpeg

VRが普及すると起こるのは、現在インターネット等で消費している情報がよりリアルになり、全身と相互作用する経験になることです。そのうえでケリー氏は、将来的には経験がインターネット上を流れる貨幣のようなものになる、と予想しています。

この「VRとしての経験の貨幣化」は、すでに現在でもその兆候を見ることができます。例えばYouTuberは何を売っているかと言えば、映像化された本人の経験です。現在、経験をインターネットで流通可能とする主要な技術は映像ですが、将来、YouTuberのパフォーマンスをVRヘッドセットを装着して視聴する日が来るのかも知れません。

代償を伴うトラッキング


20160724_image_7.jpeg

VR化された経験が貨幣のように流通する未来では、必然的に個人の経験が今まで以上に追跡=トラッキング可能となります。そうした未来では、主要なVR技術を提供する企業が最も多くのデータを蓄積することになります。この見方にもとづけば、未来のGoogleにあたる企業はVRエクスペリエンス検索技術を基幹ビジネスとしている、と言えます。

未来においても問題となるのが、情報の透明性とプライバシーのバランスです。公開する個人情報が多ければ、それだけより個人に適した言わばパーソナライズされたサービスを受けることができます。しかし、当然プライバシーは犠牲になります。ケリー氏は、こうした問題に「情報公開度のスライダーボタンモデル」を提案しています。

20160724_image_8.jpeg

ケリー氏は、ユーザは個人のニーズに合わせてどの程度情報を公開するか選択肢をもつべきだと主張します。そのうえで、プライバシーを守るためにはパーソナライズされたサービスは放棄すべきで、反対にパーソナライズされたサービスが欲しければ個人情報を公開しなければならないことを受け入れることが大切だと述べます。

以上のレジュメは、ケリー氏が講演会で語ったほんの一部しか触れていません。ブログ作者は、はじめは新刊を読めば講演会は行かなくていいや、なんて思っていました。しかし、講演会に参加した結果、ケヴィン・ケリーという人物が自分にとって「情報」でなく「経験」となったので、非常に刺激を受けました。

『〈インターネット〉の次に来るもの―未来を決める12の法則』の感想は、近日中にブログにアップします。

スポンサーサイト

落合陽一トークイベントの感想記事が落合陽一にツイートされていた件

 今日の記事は、先日参加した落合陽一トークイベントの感想記事が落合陽一氏本人にツイートされた事件の顛末を報告します。

20160204_1.png 

 事件の発端は、ブログにトークイベントの感想を掲載した後の土曜の朝(1月30日)に始まりました。いつものように朝食を摂ったあと、各種ブログニュースをチェックしつつ、ブログのアクセス解析をしていると、アクセス数が異常な数を表示していました。普段のこのブログのアクセス数は、1日に10アクセスを超えたら繁盛したほうで、平均して1桁後半で推移しています。しかし、1月30日の朝8時前、突如として13アクセスも記録されたのです。はじめのうちはトークイベントに参加した人たちが、ようやく感想を見つけてくれた程度に思っていました。その日は1日を通してアクセスがあり、結果的に43人ものユニークユーザがブログを閲覧しました。このブログ開設以来の最高レコードです。以下にGoogle Analyticsの解析画像を掲載します。1枚目の画像が最近1ヶ月のセッション数の推移、2枚目の画像が1月30日のセッション数の推移です。

20160204_2.png 
20160204_3.png 
上の画像が最近1ヶ月のセッション数の推移。1月30日の異常ぶりが見て分かる。下の画像が1月30日のセッション数の推移。落合氏がツイートした7:40頃からこのブログがにわかにざわついたのが分かる

 日付が変わって1月31日になるとアクセスが平常値に近くなったので、改めてGoogle Analyticsでアクセスの流入元を調べると、twitterが浮上しました。ブログ作者は、twitterアカウントをツイートの閲覧にしか使っていないので、自身のツイートが感想記事拡散の震源地なのはありえません。そこでもしやと思い、落合氏のツイートを調べてみたら、自分の記事がつぶやかれていたことを知ったのです。知ったのは、31日夜でした。

 落合氏にリツリートしようかとも思いましたが、止めることにしました。その理由は、ブログ作者がtwitterに慣れていないこともあります。いちばん大きな理由は、近い将来、また落合氏のイベントに参加して、落合氏に読まれることを意識してブログ記事を書こうと決めたからです。

ブログはtwitterに比べると、リアルタイム性とインタラクティブ性に劣り、むしろマスメディアに近い情報ツールです。ブログで感想記事を書くとなると、イベントを思い出して書くべきトピックを取捨選択することが迫られます。twitterに比べたら、孤独な作業を強いられるのです。しかし、そうした孤独な時間によって、書く内容が熟成すると思われるのです。そして、この熟成された表現は、新鮮な表現とは異なる味わいがあるのではないでしょうか。ちょうど新鮮な果実と、その果実から作られた果実酒が異なるように。

 以上の事件は、まさに晴天の霹靂でした。だからといって、ブログ作者は自分のスタイルを変えずに、自分のアイデアと表現を熟成させていこうと思います。

 最後ですが、(きっと読んでいないだろうけれども)落合さん、ツイートありがとうございました!!

落合陽一トークイベント@渋谷ヒカリエ 感想

今日の記事は、昨日参加した落合陽一氏のトークイベントの感想を書きます。

20160128_1.jpg 

 昨日は渋谷ヒカリエに落合陽一のトークイベント「〈魔法の世紀〉に人類の心を動かすものは何か —これからの〈文化〉のかたちについて」に参加しました。トークのテーマは、〈映像の世紀〉であった20世紀に対して、21世紀はどのようなメディア表現が力を持つか、です。

落合陽一は周知の通り、最近マスメディアへの露出の多い今をトキめくメディアアーティストです。ブログ作者も落合の初の単著書『魔法の世紀』を読んでいます。昨日のトークイベントは、落合が打ち出した〈魔法の世紀〉の具体的な実現案についてパネリストがアイデアをぶつけ合うものでした。

〈魔法の世紀〉というアイデアは、対となる〈映像の世紀〉との対比で理解しなければなりません。20世紀は政治的•文化的に映像が大きな力をもった世紀でした。映像から情報を得る体験とは、平面的なディスプレイに映し出されるバーチャルリアリティーからリアリティーを再構成することを意味します。落合は、今世紀は映像に変わる新たなメディアからリアリティーを構築すべきだと主張します。そうした映像に対抗するメディアとは、立体的な物理空間に直接的に現出することを本質としています。《Fairy Lights in Femtoseconds》をはじめとした落合のメディアアート作品とは、平面的なディスプレイに対抗して物理空間に直接イメージが現出するメディア体験を提示する試みなのです。

 ブログ作者は、落合が著書には書いていないような発言について、とくに注意して聞いていました。

そんな発言で興味深かったのは、エジソンとリュミエール兄弟はどちらがよりメディアアーティストか、という問いかけです。落合は、映画の発明者リュミエール兄弟より、発明王エジソンの方がメディアアーティストである、と発言していました。

20160128_2.jpeg 
左画像がリュミエール兄弟、右画像がエジソン

 この発言を、ブログ作者は次のように解釈します。メディアの本質をマクルーハンが言うように人間を拡張するテクノロジーと理解すれば、視覚を拡張しただけのリュミエール兄弟より、蓄音機やキネトスコープを発明したエジソンの方が多くの知覚を拡張したことになります。それゆえ、エジソンの方がよりメディアアーティスト的な業績を残したと言えるのです。

 落合は自身のアート作品を〈文脈のアート〉と対比して〈原理のアート〉と標榜しています。この言葉をマクルーハンの助けをえながら解釈するとこうなるのではないでしょうか。新規のメディア体験は知覚に変革をもたらすのであれば、そこに解釈の対象となるような文脈=コンテクストあるいはコンテンツがなくとも、十分にアートとして成立する、と。落合は、マクルーハンの「メディアはメッセージである」という命題をアート作品で提示しているのです。

ブログ作者は、落合氏に深く共感します。というのも、アートとテクノロジーの関係をラディカルに追求しているからです。ただ、ブログ作者は落合氏ほどメディアとコンテンツを対立的には捉えていません。将来、例えば立体ホログラムのような物理空間に直接イメージを現出させる技術が普及したら、人間はきっとその新しいメディアにコンテンツをのせるように思えてなりません。メディア史を振り返ると、先発のメディアが後発のメディアのコンテンツになることを繰り返しているのです。こうしたメディアとコンテンツを巡る螺旋運動は、21世紀においても継続するように思われます。

いずれにしてもトークイベントに参加して、落合はしばらくは時の人として君臨することは間違いない、とまさに肌で感じました。 



プロフィール

吉本幸記

Author:吉本幸記
元エンジニアのフリーライター。テクノロジー系の記事を執筆している。アートにも関心がある。美術検定3級取得

最新記事

カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

カウンター

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。