スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ブログ更新一次休止のお知らせ

今日の記事は、今後の更新方針についての告知です。

本ブログ『21世紀のレジュメ』も、ようやくアクセス数が1000を突破しました。

つきましては、本ブログのさらなる飛躍のために、ブログ作者の生活の見直しを伴ったリニューアルに着手したいと思います。そのため、ブログの更新を一次休止します。

本ブログは、本来メディア論のカテゴリーに投稿した記事を読んでもらうことを目的として、開設しました。しかし、現在ではブログ作者が興味のあるコンテンツのレビューが中心となり、当初の目的とは大きく異なる運営を続けてきました。リニューアル後のブログの内容については、まだ白紙です。あくまで案ですが、コンテンツレビューを中心にリニューアルする場合は、記事の内容を軽くする代わりに投稿数を増やす方向にする等を考えています。

リニューアル期間は、最低で1ヶ月を要すると考えています。最悪、3ヶ月程度かかるかも知れません。

しかしながら、本ブログを今の状態で放置して、事実上の終了状態にだけはしません。もしかしたら、映画のレビューをときどき投稿するかも知れません。

本ブログの常連の皆様には、深く感謝致したいと思います。

必ずまた帰ってきます。

                  2015年7月28日
                  苦悩する門外漢
                  吉本 幸記

スポンサーサイト

海外の『ルック•オブ•サイレンス』のレビューを読む 海外ブログレビュー

今日の記事は、海外ブログが発表した映画『ルック•オブ•サイレンス』のレビューを紹介する海外ブログレビューです。
今回の記事では、海外ブログの映画レビューだけではなく、『ルック•オブ•サイレンス』のインドネシアでの反響を映画プログラムを参照しながら紹介します。

20150722-1_convert.png 

本日の記事では、2つの海外ブログの映画レビューを紹介します。『ルック•オブ•サイレンス』は姉妹作『アクト•オブ•キリング』ほど複雑な構造の映画ではないので、レビューも目を見張るほど斬新ではなく、比較的穏当な内容となっています。

ひとつめに紹介するのは、イギリスの有名一般紙ガーディアンのレビューです。このレビューでは、加害者と対面するアディの態度を賞賛しています。虐殺の被害者の家族が加害者と会うというシチュエーションでは、被害者の家族が怒りに我を忘れたり、逆に恐怖で萎縮したりしてもおかしくはありません。しかしながら、『ルック•オブ•サイレンス』の主人公とも言えるアディは、怒りにも恐怖にも流されることなく終始毅然とした態度で加害者を問い質していました。『ルック•オブ•サイレンス』が感情に訴える安っぽい作品に陥らなかったのは、アディの態度に多くを負っているように思われます。

20150722-2_convert.png 

ガーディアンのレビューでは、ときおりスクリーンに写されるインドネシアの光景の美しさも賞賛しています。確かに映画中のインドネシアの森や、のどかに暮らしているように見える村の様子を見ただけでは、かつて虐殺があったとは到底考えられません。しかし、『ルック•オブ•サイレンス』の素晴しさは、こうした美しい光景やのどかな生活が偽りの歴史のうえに築かれていたことを暴くところにこそあるのです。

紹介するもうひとつのレビューは、アメリカの映画レビュー集計サイトmetacriticで最も読まれたレビューであるニューヨーカーのものです。このレビューで興味深いのは、『ルック•オブ•サイレンス』はホイッグ史観を批判しているという論点です。ホイッグ史観とは、歴史は常に正しい者によって更新される、あるいは勝者こそが歴史を作ると捉える一種の進歩史観です。虐殺の加害者が現在でも権力を握っている現実を記録した『ルック•オブ•サイレンス』を見れば、ホイッグ史観がまやかしのように思われてきます。

20150722-3_convert.png 
インドネシアでのプレミア上映会の様子を写した画像。舞台中央にはアディがいる。

インドネシア国内での『アクト•オブ•キリング』初回上映が秘密裏に行われたのに対して、『ルック•オブ•サイレンス』は政府機関のお墨付きを得て、インドネシア最大の劇場で封切られました。その会場にはアディも挨拶に来て、10分にも及ぶスタンディングオベーションがあったそうです。

しかし、軍と警察の息がかかっていると思われるチンピラたちが、上映を妨害すると脅迫する事件も起きました。軍と警察は安全確保という名目で、多数の映画館で上映を禁止しました。この事実上の検閲はインドネシアでも反発を招き、インドネシア国家人権委員会は上映禁止を取り下げるように活動しています。

『アクト•オブ•キリング』『ルック•オブ•サイレンス』は、人間の暴力性という普遍的な題材に安易なメロドラマに流されることなく真摯に取り組んでいることからしても賞賛に値する真面目な映画です。ただこの2作を独創的なものにしているのは、映画の可能性を深く追求しているから、とブログ作者には思われてなりません。 

【関連記事】
「禁じられた語りを打ち破る沈黙」映画『ルック•オブ•サイレンス』感想 ※ネタバレあり

「禁じられた語りを打ち破る沈黙」映画『ルック•オブ•サイレンス』感想 ※ネタバレあり

今日の記事は、最近公開された映画を批評する映画レビューです。
今日批評する映画は、昨年注目されたドキュメンタリー映画『アクト•オブ•キリング』の姉妹作『ルック•オブ•サイレンス』です。今日の記事では、かなり踏み込んだ批評を展開するので、ネタバレがあります。

20150721-1_convert.png 

総合評価:★★★★☆(星5つ満点中星4つ)

「私にはそれがまるで、自分の祖先の多くが命を落としたホロコーストから40年後のドイツで、ナチスが未だ権力を持ち続けていたかのような光景に見えました。ナチスの親衛隊が自分の行為を語るとしたら、きっとこのような感じだろう、と。その瞬間から、すべての仕事を捨て、何年かかってもいいからこの問題を掘り下げようと誓いました。」
 ー 『ルック•オブ•サイレンス』プログラム所収のジョシュア•オッペンハイマーへのインタビューより抜粋

民衆が不在な「現代」の政治的映画

20150721-2_convert.png 
『戦艦ポチョムキン』はモンタージュ技法を駆使した映画としてエイゼンシュタインの名を世に知らしめた作品である。この映画はロシア革命20周年を記念する政治目的のために制作された。画像は有名な「オデッサの階段」のシーン。

『シネマ』で展開されるドゥルーズの映画論は、20世紀のおける映画史をちょうど第二次世界大戦を境として、古典時代と現代に分けています。古典時代の映画の特徴は、映画における出来事の生成変化を物体の運動、あるいは人物の行為を撮影することで表現します(「運動イメージ」の映画)。古典時代の映画を確立した作品には『イントレランス』が挙げられます。

ドゥルーズが論じる「現代」の映画とは、第二次世界大戦後に現れる出来事の生成変化を運動や行為ではなく、カメラが撮影する光景の推移で表現するものです(「時間イメージ」の映画)。時間イメージで構成された作品の作り手として、ドゥルーズはヴィスコンティを挙げています。『山猫』『ベニスに死す』で描かれているのは、ある貴族の生活でも大作曲家の旅行記でもありません。そうではなく、貴族や作曲家の行為が醸し出す「滅ぶ」過程として流れる時間が映像化されているのです。

ドゥルーズは『シネマ2*時間イメージ』の第8章において、映画と政治の関係について論じます。映画と政治の関係についても、古典-運動イメージと現代-時間イメージの対比が認められます。古典時代の政治的な映画は、民衆が行動の主体として描かれています。古典時代の政治映画の代表作には、『戦艦ポチョムキン』があります。この作品で最も有名な「オデッサの階段」のシーンは、まさに民衆を画面の中心に据えています(ちなみにこのシーンに出演しているオデッサ市民は、みな演技経験のない一般市民)。対して、「現代」の政治的映画には、民衆が欠けています。具体的には、第二次世界大戦後に制作された政治的なドキュメンタリー映画のうちで注目すべきものは、マイノリティーあるいは植民地の先住民を撮影しているのです。このような被写体は、社会的には「存在しない」グループとして扱われるのが歴史の常です。こうした被写体を中心に据えた映画では、撮影するべき「民衆」を発見し、発見した「民衆」が自らの出自に目醒めていく過程=時間イメージを映像化することが求められます。自らの出自に覚醒する時の流れを撮影ためには、隠れていた「民衆」に自らを語らせることが最適な方法です。被写体を映画制作に巻き込むことは、『アクト•オブ•キリング』のレビューで言及したように、被写体が映画の意味の創造者となることを意味します。

『ショアー』、「語り得ぬもの」を語る

20150721-3.png 
『ショアー』はホロコーストという空前絶後の出来事を映画によって再現するのではなく、再現できないことを表現した映画である。映画で撮影された光景は、今は何もないかつての強制収容所の跡地である。画像は『ショアー』のトレーラーからの引用したもの。先に引用した『戦艦ポチョムキン』の「オデッサの階段」のシーンと比べると、「民衆」の不在は一目瞭然である。

ドゥルーズが『シネマ』を出版した後、まさにこの上ない「現代」の政治的映画が発表されました。その映画こそ、ホロコーストからの生存者の証言を撮影した『ショアー』です。『ショアー』がこの上なく「現代」の政治的映画であるのは、ふたつの「不在」を被写体としているからです。ひとつめの「不在」は、撮るべき「光景」の不在です。ホロコーストという忌むべきことが起こったはずの強制収容所があるはずの場所には、収容所の姿など跡形もない野原が広がっていました。もうひとつの不在が「証言者」の不在です。周知のように、ホロコーストからの生存者はごくわずかでした。しかし、それ以上にそうしたわずかの生存者が、自らに起こった災いがあまりに圧倒されて語れずにいたために、証言が可能な人物が文字通り不在だったのです。

『ショアー』は「光景」と「証言者」というふたつの不在に対して、まさにその不在を被写体として真正面から撮ることを選択しました。すなわち、ひとつめの「光景」の不在については、あえて空虚と化したホロコーストの現場を被写体とすることで、暴力の現場をも抹消する徹底した暴力を表現しました。ふたつめの「証言者」の不在に関しても、証言というにはあまりに断片的な生存者の語りを、安易に要約することなく記録していきました。「証言」というにはあまりにも頼りない語りが、却って理解を超えた暴力を想起させたのでした。

『ルック•オブ•サイレンス』、「禁じられた語り」を見せる

20150721-4_convert.png 

『ショアー』と『ルック•オブ•サイレンス』は、虐殺の被害者を被写体としている共通点があります。また、撮るべき当の被害者が「歴史的には」存在しないことになっていることも共通しています。『ルック•オブ•サイレンス』は『ショアー』と同様なドゥルーズが言うところの「現代」の政治的映画なのです。しかしながら、『ルック•オブ•サイレンス』では『ショアー』にはなかった「光景」も「証言者」も「現実に」存在します。虐殺の現場もあり、証言する加害者および被害者の家族がいるにもかかわらず、虐殺を語ることが出来なかったのは、忌まわしい惨事として虐殺を語ることが禁じられていたからなのです。そして、未だに権力を握っている加害者こそが「歴史的に」虐殺を語ることを禁じていたのでした。『ルック•オブ•サイレンス』を制作するとは、誤解を恐れずに言えばナチスが未だ権力を握っている状況で、『ショアー』のような虐殺の被害者についての映画を作れるかという問いかけに応えることでもあるのです。こうした問いかけに対して「語りの禁止」を如何にして克服するかという点が、重要な鍵となるのではないでしょうか。

語ることが禁じられた虐殺についての映画を制作するにあたり、語りを禁じている加害者にあえて語ってもらうという手法をとったのが『アクト•オブ•キリング』でした。虐殺の被害者に寄り添って映画を制作した『ルック•オブ•サイレンス』では、被害者が加害者と対面する現場を撮るという手法をとりました。この手法を実行するにあたり撮影班および被害者のアディは、周到な準備をしていました。撮影は少数のスタッフで行い、不測の事態が生じた場合は、いつでも逃走できるようにしていました。アディも加害者を正面切って非難するようなこともせず、はじめは眼鏡調整師として接近して、徐々にかつての虐殺を問い質すという演劇的とも言える役回りを担いました。

『ルック•オブ•サイレンス』の特筆すべきシーンは、アディが加害者に虐殺を問い質しはじめるところです。それまでの和やかな雰囲気が一変するのです。そして、加害者は狼狽したり、怒りを露にします。こうした雰囲気の一変は、加害者が次の言葉を発するよりも早く、言わば沈黙のなかで起こります。沈黙のなかで、加害者には何が起こったのでしょうか。

加害者にとって、アディのような被害者の家族は自分から遠ざけておきたい亡霊のような存在なのではないでしょうか。自分が手をかけた被害者はすでに死者となり目の前に現れるはずはないにもかかわらず、そうした死者の魂を受け継ぐ者との対面は、加害者にとっては亡霊の現れに等しいと言っても過言ではないでしょう。こうした亡霊を遠ざけておきたい理由として、報復を恐れていることは当然あるでしょう。しかし、遠ざけておきたいいちばんの理由は、倫理的な責めに悩まされないためではないでしょうか。それゆえ、亡霊に苛まれないために加害者は虐殺を「現実」の出来事として語ることを禁じる一方で、自分たちを正当化する「歴史」を騙ったのです。

アディと対面した加害者の反応は様々でした。しかし、共通しているのは、アディが被害者の家族だと知った瞬間に平静ではいられなくなったことです。加害者は沈黙のなかで、それぞれの仕方で亡霊を見たのです。

映画の限界を超えて

『ルック•オブ•サイレンス』は、虐殺の被害者の家族と加害者の対面を撮影したことにより、他に類を見ないドキュメンタリー映画となっています。ただ姉妹作『アクト•オブ•キリング』のような加害者が改心するような瞬間は、直接的には描かれていません。加害者が自らの罪を認めるためには、虐殺を自ら被害者を演じて回顧するような何らかの自発性が不可欠なのでしょうか。『ルック•オブ•サイレンス』からは、『アクト•オブ•キリング』にはなかったある種の無力感を感じずにはいられません。

映画によって直接的に「歴史」を変えられないにしても、『ルック•オブ•サイレンス』を制作したジョシュア•オッペンハイマーはすでにより良い「現実」のために行動を起こしています。『ルック•オブ•サイレンス』のプログラムによると、ジョシュア氏は現在映画をインドネシアの新大統領に観てもらうように働きかけています。

インドネシアでは昨年政権交代があり、新大統領にジョコ•ウィドド氏が就任しました。ウィドド氏は、富裕層出身でも軍部出身でもない一介の庶民から大統領になったことで注目されました。彼は大統領選を戦うにあたりSNSを最大限に活用したことから、オバマ大統領と比較されたりもしています。

ウィドド新大統領は、テクノロジーを政治に活用する「21世紀」型の政治家として注目されている。動画はYoutubeに投稿されているCNNのニュース映像。

ジョシュア氏もウィドド新大統領のようなAI(After Internet)を生きる人物ならば、「歴史」における過ちを正せると感じたのでしょう。かつて映画は、旧ソビエト政権やナチスを繙けばわかるように、ときに政治に利用されてきました。しかし、今日では政治を動かすメディアはインターネットが主役となり、映画はむしろトラディショナルなメディアとなった感が否めません。

『ルック•オブ•キリング』の総合評価が星4つなのは、今まで述べたように一種の無力感を感じたからです。しかし、残りの星は今後のインドネシアが正しい歴史を歩むことによって、付与されるでしょう。 

【関連記事】
「受肉した映画による歴史の過ぎ越し」映画『アクト•オブ•キリング』感想

海外の『アクト•オブ•キリング』レビューを読む 海外ブログレビュー

今日の記事は、海外のブログニュースを紹介する海外ブログニュースレビューです。
今日紹介するブログニュースは、映画『アクト•オブ•キリング』をレビューしているブログニュースサイトをふたつ採り上げます。

20150714-1_convert.png 

ひとつめに紹介するブログ記事は、イギリスの有名一般紙”the guardian”の『アクト•オブ•キリング』をレビューしたものです。

ガーディアンのレビュー記事におけるキーワードは、”surreal”(シュールレアル、超現実)です。『アクト•オブ•キリング』の特異性は、インドネシアで起こった虐殺の加害者が、当時の虐殺を自分たちで映画を作って再現するという演出に由来しています。この当時の虐殺の再現が、リアリスティックに表現されるのではなく、むしろ演者=加害者によって過剰に脚色されます。ガーディアンは、この荒唐無稽な脚色をsurrealと形容するのです。

ガーディアンのレビューは、こうしたsurrealな映像がアンリ=ジョルジュ•クルーゾーの未完の映画『インフェルノ』を連想させると続けます。『インフェルノ』は未完の作品ながら、一部残っている映像をYoutubeで視聴することができます。その映像と、『アクト•オブ•キリング』で最もシュールな部分と言える滝の下で殺害した共産主義者の亡霊から感謝の印としてメダルをもらうシーンを比べると、確かに極彩色にきらめく感じが似ていなくもないです。もっとも、『インフェルノ』の映像はモダンアートを連想させるのに対して、『アクト•オブ•キリング』はエスニックな伝統が全面に出ているという大きな違いがあります。



レビューでは加害者がインドネシアの国営テレビに出演して英雄扱いされるシーンを引き合いに出して、まるでオリバー•ストーンが監督した『ナチュラルボーンキラーズ』のようだと述べています。

もうひとつのレビュー記事は、全米各地の映画批評を集計して得点を付けるmetacriticからのものです。metacriticが集計した『アクト•オブ•キリング』のレビューのなかで、最も多く読まれた記事が”Portland Oregonian”のレビューです。このレビューにおいても、『アクト•オブ•キリング』を独創的な映画にしている特徴として、加害者の演技=虚構と加害者の現在を撮影した現実の併置を指摘しています。

20150714-2.png 
『アクト•オブ•キリング』の主人公アンワルは西部劇が大好きで、とくにジョン•ウェインがお気に入りだと劇中で言っている。ジョン•ウェインは自他ともに認める「強いアメリカ」を象徴する俳優である。画像はジョン•ウェインの出世作『駅馬車』の1シーン。

レビューのそのほかの論点として興味深いのが、『アクト•オブ•キリング』のなかに認められるアメリカ文化帝国主義です。映画のなかで加害者たちは、ちょうど虐殺に加担した若い頃はアメリカ映画が大好きだったと言っています。虐殺に先立つスカルノ政権は、共産主義政府だったのでアメリカの政治的•文化的影響力は制限されたものでした。しかし、虐殺が起こる原因ともなったスカルノからスハルトへの権力の委譲は、一説には共産主義勢力が拡大することを恐れたアメリカ政府が後押ししていたとも言われています。いずれにしろスハルト政権になってから、インドネシアはアメリカの政治的•文化的影響を強く受けます。レビューでは、そうした影響が虐殺の加害者の映画の嗜好にも表れていると指摘しています。

ブログ作者は『アクト•オブ•キリング』の記事を書くにあたり、日本のレビュー記事もいくつか読みました。そうしたレビューを読むと、どちらかと言えば倫理的•政治的文脈で批評するものが多い印象を受けました。対して海外のレビュー記事は、映像比較論あるいはメディア論的な切り口で批評しているものもあり新鮮に感じました。

 【関連記事】
「受肉した映画による歴史の過ぎ越し」映画『アクト•オブ•キリング』感想

「受肉した映画による歴史の過ぎ越し」映画『アクト•オブ•キリング』感想

今日の記事では、昨年公開されたドキュメンタリー映画『アクト•オブ•キリング』のレビューです。

本来このブログでは公開間もない映画をレビューすることを原則としていますが、次回の記事でレビューする『ルック•オブ•サイレンス』を適切に理解する下準備として、あえて1年以上前に公開された『アクト•オブ•キリング』をレビューします。このような事情のため、レビューにおけるネタばれもあります。

20150713-1_convert.png 

総合評価:★★★★★(星5つ中5つ満点)

『アクト•オブ•キリング』の奇妙さ
『アクト•オブ•キリング』は題名が表わしている通り、1965年にインドネシアで実行された共産主義者とされる人々を虐殺した加害者に、自分たちが実行した虐殺についてアクト=演じてもらって、彼ら自身の映画を作る一部始終を記録した映画です。こうした特殊な制作背景をもっている本作は、他の映画にはない特異な特徴があります。このレビューでは、特異点をふたつ挙げます。

ひとつめの特異点は、加害者たちが作った映画の画像が本編ではごく断片的にしか現れないことです。具体的には、映画の作り手である加害者たちが撮影した映像をチェックするために、テレビのディスプレイに映像を出力して見ている場面に写されているだけなのです。そのため、撮影した映像に込められた加害者たちの主張は、本編を見てもまるでわからないのです。

ふたつめの特異点は、ひとつめのものより深刻です。映画の構造上、加害者たちは映画の出演者になっている時は過去の虐殺という出来事を演じ、映画の作り手として現在を生きている時は、過去を振り返る実在の人物として心情を吐露しています。つまり、演技というかたちで仮想的な時間が表現されると同時に、まさに正当なドキュメンタリー映画として現実が提示されてもいるのです。しかもこの仮想的現実と真正な現実は、映画が進むにつれて、その区別が曖昧になっていくのです。だいたい、過去の虐殺を再現するために女装するような演出に、如何ほどの「真実」があるのでしょうか。映画の作り手である加害者が勝手に「過去」を捏造しているだけのように思われてきます。そうなると、「現在」において吐露する過去の虐殺という所業に苦しめられているという発言も、単なる演技のようにも見えてきます。

本作を「悪の凡庸さ」あるいは「個人の倫理と国家の正義の対立が生む悲劇」といった倫理的•政治的文脈において理解するはもちろん可能ですし、そうした理解がむしろ自然な受け取り方のように感じられます。しかし、こうした理解では本作を特異なものとしている仮想的現実≈虚構と現実の関係を、十全に見据えていると言い難いのではないのでしょうか。少なくとも本作は、「戦争が生む悲劇」あるいは「戦争は人間性を麻痺させる」といったややステレオタイプ的な倫理的解釈で片付けてしまうと、見落としてしまうものがあまりにも多いのです。

現実/虚構の二項対立を乗り越える先駆的映画、シネマ•ヴェリテ

20150713-2.png 
『市民ケーン』は、新聞王ケーンがその死に際して残した「バラのつぼみ」という言葉が何を意味するかを狂言回しであるトムスンが調査するという筋立ての映画である。この調査は失敗に終わるものも、ラストシーンにおいて映画の観客には理解できるような演出となっている。劇中の謎を劇中の人物は誰も分からないにもかかわらず、観客は分かるという劇中の意味が「映画の外に」開いた先駆的作品である。画像は『市民ケーン』の1シーン。

ドゥルーズは、映画論を展開した著作『シネマ2*時間イメージ』の第6章「偽なるものの権能」において、興味深いなドキュメンタリー映画論を提示しています。ドゥルーズは、劇映画であれドキュメンタリー映画であれ、およそ映画が意味あるものとして理解されるときに備えている構造を論じています。

その論点とは、映画の画面内の被写体≈演者の視線と画面内の光景の一致です。今日の映画の約束事として、カメラが撮影する光景は小説でいうところの地の文として機能して客観的描写を提示します。カメラのアングルが画面内の人物の視線と一致した場合は、その人物が見ている主観的な光景として理解されます。そして、何より重要なのは画面内の人物が見ている対象物が画面内になくとも、撮影されている人物は映画のなかの何かを見ていると理解されることです。言って見れば映画の意味は画面内に閉じているのです。分かりにくい映画は、客観的なカメラアングルと主観的なカメラアングルを適切に切り替えることが出来ていないだけであって、原理的に映画内で解決できない「謎」はありません。この論点は「映画画面内の統一性」と言えます。

「映画画面内の統一性」は、少し考えれば至極当たり前のことを言っているに過ぎないことが理解できると思います。しかし、ドゥルーズは映画史においてこの映画の約束事を壊した作品があることを指摘します。まずオーソン•ウェルズの『市民ケーン』で約束事の崩壊の予兆があり、次いで1960年代に現れた新しい手法を用いたドキュメンタリー映画で完全に解体されます。ドゥルーズは、こうしたドキュメンタリー映画の例としてシネマ•ヴェリテ(仏語で「真実の映画」)を挙げています。

シネマ•ヴェリテの代表作であるジャン•ルージュの『ある夏の記録』は、はじめは被写体として撮影したパリの一般市民に、編集した映像を見せて自分たちを正しく表現した映画であるか否かを討論するまでの一部始終を収めた映画です。この作品の革新的な特徴は、映画画面内の被写体が同時に映画の作り手でもあるところです。被写体が同時に作り手になることで、先に述べた映画の古典的な約束事が解体します。被写体が作り手も兼ねることによって、画面内に映っている人物は台本や演出の支配に服した「生けるオブジェ」であることを止めてしまいます。「生けるオブジェ」であることを止めた被写体の視線は、もはや画面内のどこかに固定されなくなります。そして、映画の作り手と化した被写体=演者は、映画の意味を生成する者となるのです。

「映画画面内の統一性」という伝統的な約束事にしたがった映画では、フィクションとドキュメンタリーの区別は、画面内で閉じている意味連関が現実の世界に見出せるか否かということに基づいています。ところがシネマ•ヴェリテでは、例え現実を撮影した映像であっても、被写体=作り手が真実味を感じなれば「虚構」となります。シネマ•ヴェリテとは、言って見れば被写体=作り手が「現実」を決定する過程を描いた映画なのです。こうした現実を決定する過程は、現実と虚構という二項対立を絶えず乗り越えていく行為と言い換えることも出来ましょう。

プレマン、起源を欠いた者たち

20150713-3_convert.png 

『アクト•オブ•キリング』は、被写体が同時に映画の作り手でもある映画なのは言うまでもありません。それゆえ、ドゥルーズのシネマ•ヴェリテ論を援用するならば、本作は虐殺の加害者が映画作りを通じてある種の「現実」を見出す作品と理解すべきなのです。映画のどこが「真実」で、どこが「嘘=虚構」なのかを判定することはあまり意味のないことです。加害者にしてみれば、悪夢にうなされている現実を表現しようとして、悪霊を演じて撮影することは「真実味」があり、反対に共産主義は国家を脅かす「嘘」なのです。

本作の主人公とも言えるアンワルには、見出すべき「真実」がありました。それは、共産主義者の虐殺が正義であったと語る歴史です。アンワルは、自らが実行した虐殺が正しいと信じている一方で、殺害した光景が文字通り悪夢となって蘇ることに苦しんでいます。アンワルは、虐殺を正当化することで、文字通り悪霊を祓うことを願っていたからこそ、映画作りに積極的だったと言えましょう。

アンワルほどではないにしても、映画に登場するプレマン(虐殺の実行グループの名称)の面々は、虐殺という過去と決して健全とは言えない関係にあります。現在ではアンワルと距離を置いているアディ•ズルカドリは、もはや過去を顧みないという姿勢を貫いていますし、アンワルと行動を共にしているヘルマン•コトに至っては過去そのものに関心が薄く、執心しているのは専ら現在の力=権力という始末です。プレマンの面々は、それぞれの仕方で自らの起源を失ったまま現在に至っているのです。

自らが映画となり、他者となった果てに

20150713-4_convert.png 

しかしながら、失われた起源を求めるアンワルの試みは、失敗を宿命づけられていたと言わざるを得ません。なぜならば、被写体=作り手となって自ら映画の意味の創造者となった場合、(虐殺に加担して成り上がったという)現在の「歴史」を解体することはできても、アンワル自身が望んだ「英雄」としての歴史が新たな現在となる保証はどこにもないからです。

ドゥルーズは、シネマ•ヴェリテにおいて被写体=作り手が映画の意味の創造者と化していくさまを次のように表現します。「人物は、決してフィクションになることなく作り話を始めるとき、みずから他者となる」(『シネマ2*時間イメージ』 p210より引用)と。虐殺の被害者の役を演じるほどに映画制作にのめり込んでいったアンワルの身に起こったことは、まさに自らが被害者という他者となることだったのですそして、他者となることによってはじめて、自らが罪人であるという「歴史」を超えた「真実」を見出したのでした。

『アクト•オブ•キルング』では、アンワル以外の登場人物に関して、映画作りを経てどのようになったかは明確には描かれていません。しかし、ほかの人物はアンワルほど映画作りによって「現実」を変えようという意志はなかったように推し量られます。アンワルが映画作りを経験して被害者の痛みに共感し得たのは、アンワルがほかの人物より道徳的だったという説明は不適切だと思われます。そうではなく、ほかの人物より映画によって「現実」を変えることを強く望んでいたからと捉えるのが妥当です。

『アクト•オブ•キリング』は、倫理的•政治的メッセージを声高に主張するような映画ではありません。それでもなお、本作が傑作の誉れ高いのは、「現実」が「歴史=物語」という虚構に根を下ろしていることを暴き立てることで、「現実」を問い質す力が映画にはあることを、凡庸な政治的映画が及びもしない仕方で証しているからではないでしょうか。 

【関連記事】
「禁じられた語りを打ち破る沈黙」映画『ルック•オブ•サイレンス』感想 ※ネタバレあり
海外の『アクト•オブ•キリング』レビューを読む 海外ブログレビュー

7月の投稿記事ラインナップの告知

今日の記事では、7月の更新予定を告知します。

◯ 7月のブログ記事ラインナップ

• 7月第3週:映画『アクト•オブ•キリング オリジナル全長版』レビュー&海外映画レビュー記事紹介
• 7月第4週:映画『ルック•オブ•サイレンス』レビュー&海外映画レビュー記事紹介
• 7月第5週:日本科学未来館企画展『ポケモン研究所』レビュー

◯ 映画『ルック•オブ•サイレンス』特集

20150708-1_convert.png 

今月は、映画『ルック•オブ•サイレンス』を特集します。『ルック•オブ•サイレンス』は昨年話題となったドキュメンタリー映画『アクト•オブ•キリング』の姉妹作です。『アクト•オブ•キリング』がインドネシアでの虐殺の加害者に焦点を合わせた映画なのに対して、『ルック•オブ•サイレンス』は虐殺の被害者に焦点を合わせています。この2作は、映画の登場人物の立ち位置が相対しているので、言わば互いを補完する関係になっています。

『アクト•オブ•キリング』は昨年公開された作品なので、ネットで検索すれば無数の映画の感想がヒットします。感想の内容は単純に生理的嫌悪感を感じたというものや、「凡庸な悪」を思い出させたというものもあります。『ルック•オブ•サイレンス』は今月公開されたばかりなので、ある程度の長文で表現された感想はまだ少ないようです。それでも感想を読むと、映画から戦争をめぐる加害者と被害者の関係というモチーフを読み取り、そのモチーフを日本と韓国のあいだの「戦後」の問題と重ね合わせるものが少なくない印象を受けます。

20150708-2_convert.png 

本ブログでは、『アクト•オブ•キリング』『ルック•オブ•サイレンス』を倫理的•政治的文脈ではなく、一種の映画論的文脈で読み解くことを予定しています。具体的には、この2作の解釈を通して、現実/虚構の二項対立を解体する行為としての映画制作という観点を展開します。こうした観点を展開するに当たり、ドゥルーズの『シネマ2*時間イメージ』を援用します。虐殺の加害者は、映画制作を経験してなぜ「他者のような自己」を見出したのか。虐殺の被害者はなぜ弁護士でも人権団体でもなく映像作家に政治的懇願を訴えたのか。こうした問題意識に対して、映画論をもって応えていきます。

◯ データリテラシーの学び舎としての『ポケモン研究所』

20150708-3_convert.png 


7月最終週には、それまでの息苦しい映画論とはうってかわって、日本科学未来館で開催されている企画展『ポケモン研究所』についての記事を投稿します。

『ポケモン研究所』は、ポケモンのキャラクターの観察と分類を通して、新しい発見を体験する企画展です。この「観察と分類を介した新しい知見の獲得」は、ビックデータから有用な情報を抽出するデータマイニングの基本的なプロセスです。『ポケモン研究所』は表面的には子供向けの企画となっていますが、実はこれからの(もしかしたら現在の)必須教養であるデータリテラシーを体験•実践する場なのです。投稿する記事は、データリテラシーの実践アトラクションとしての企画展という言わば大人目線で執筆する予定です。 


デンマーク国立美術館開催『Cosplayer! Manga Youth』展 海外ブログレビュー

今日の記事は、海外ブログニュースを紹介する海外ブログレビューです。
今日紹介する記事は、ブログニュースではなくデンマーク国立美術館で今年3月に開催された『Cosplayer! Manga Youth』というコスプレを題材とした美術展を紹介します。

Cosplayer! Manga Youthの公式サイトは、こちら

20150701-1_convert.png 

日本のコスプレ文化が海外に波及しているのは周知の通りですが、デンマークでは国立美術館でコスプレについての美術展が開催されていました。

デンマークでは1990年代から日本のアニメがテレビで放送されるようになり、現在20代の若者は日本のアニメやゲームを言わば幼少期の原風景として育ってきました。デンマークのコスプレ文化と日本のそれとの違いは、デンマークは日本のアニメだけではなくディズニーアニメのようなアメリカのポップカルチャーもコスプレの対象となっていることです。近年ではJ-Popcomという日本のコミケのようなイベントが毎年開かれ、コスプレイヤーは自作のコスプレを披露しています。

20150701-2a_convert.png 20150701-2b_convert.png 
20150701-3a_convert.png 20150701-3b_convert.png 
20150701-4a_convert.png 20150701-4b_convert.png 
上段右のの画像は、アニメ『プリンセスチュチュ』に登場する「みゅうと」。上段左はみゅうとのコスプレをしているデンマークのコスプレイヤーHimo。彼女のFacebookはこちら。中段右は『プリンセスチュチュ』のキャラクターである「るう」。中段左はるうのコスプレをしているデンマークのコスプレイヤーKelevar。彼女のFacebookはこちら。下段右はアメリカのアニメ『アナスタシア』のパッケージ画像。下段左はアナスタシアのコスプレをしているデンマーク人のEnilokin。彼女のFacebookはこちら

美術展では、デンマークで有名なコスプレイヤーの写真が展示されています。上の画像は、日本のアニメ『プリンセスチュチュ』にインスパイアされたコスプレです。『プリンセスチュチュ』はバレエを題材としたアニメなので、画像のコスプレは日本のアニメを経由してバレエが生まれた西洋に本家帰りしたビジュアルであると言えます。オリジナルのアニメに比べてコスプレは、日本人がコスプレするよりリアルなバレエに近づいている印象を受けます。

上の画像には、アメリカのアニメ『アナスタシア』にインスパイアされたコスプレもあります。『アナスタシア』は帝政ロシア期の皇族の最後の生き残りと噂されたアナスタシアを題材としたアニメです。こちらはオリジナルも欧米圏のものなので、コスプレに何の違和感も感じられません。




この美術展の目玉のひとつにデンマークに初めてプリクラが上陸したことが挙げられます。プリクラは海外から見た場合、非常に奇異な文化のようで美術展の説明では”a kind of digital plastic surgery”(一種のデジタル的な整形手術室)と表現されています。またプリクラの奇妙さを実証した日本在住の外国人が作った動画もYoutubeにありました。

日本政府は本年度クールジャパンを海外に輸出するために400億円の出資を行っています(出典の資料は
こちら)。現在日本の企業で最もブランド力があるのはトヨタ自動車ですが、近い将来GoogleかAppleが自律自動車のOSを開発するので、自動車をはじめとしたハードウェアの価値は下落することが予想されます。クールジャパンに代表されるようなソフトコンテンツで世界的に優位な位置を占めることが、今後の国際経済政策で求められることのように思われます。


【関連記事】
『ニッポンのマンガ*アニメ*ゲーム from 1989』 感想 ※ネタバレなし



プロフィール

吉本幸記

Author:吉本幸記
元エンジニアのフリーライター。テクノロジー系の記事を執筆している。アートにも関心がある。美術検定3級取得

最新記事

カレンダー

06 | 2015/07 | 08
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -

カウンター

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。